しののめ通信【第4回】
「させる親」と「居てくれる親」
支援員 大石英史
思春期の不登校の子を持つ親御さんの支援を通して学ぶことは多いものです。今回は、子どもへの眼差しの第二弾として、親支援から学んだことをひとつ紹介しますね。
子どもが学校に行けなくなったとき、まず多くの親が「原因は何だろう?」と考えます。これは親に限らず、周りにいる誰もがこのように考えるのでないかと思います。例えば、学校でいじめがあったなどの原因が見つかれば、そこを解決すれば学校に行けるに違いないと考えるのは自然なことです。しかし、実際には、本人にその原因やきっかけを尋ねても答えてくれなかったり、本人にもその理由がわからなかったりすることの方が多いのです。そのような状況のなかで、多くの親がどうすればよいかわからなくなり、支援を求めて相談に来られることになります。父親ではなく母親の方が相談に見えることが多いです。
母親からお話を丁寧に聞かせていただくと、家庭には様々な事情があり、そのお母さんなりに一生懸命頑張っておられる姿が見えてきます。支援員としては、まずその労をねぎらうことから支援を始めることになります。ある母親は、子どもが家でゲームばかりしていることに耐えきれず、子どもへと注がれる眼差しが、決められたゲームの時間と勉強をすることだけに向けられ、母親自身が精神的にもたなくなっているように見受けられることもあります。その一方で、学校に戻ることをいったん諦め、子どもの状態を理解することに努めながら、忍耐強く自立を待っている母親に出会うこともあります。いずれの母親もわが子のことを心配され、将来に向けて何とか自立していってほしいと願っておられることに変わりはありません。
ここで仮に親に二つのタイプがあるとします。ひとつは子どもに何が足りないかを見つけ、それに対して何かをさせることが教育だと考えている親、これを「させる親(doing parent)」。もうひとつは、子どもの心に関心を向け、気持ちを感じ取り、そこから関係をつくり出していく親、これを「居てくれる親(being parent)」と呼ぶとします。後者は物理的にいつも一緒にいるということではなく、親が子どもにとっての安全基地、すなわち居場所になっていることを意味しています。この二つは、日頃から、子どもの何を見ているかについての違いでもあります。ただ、単純に「させる親(doing parent)」がダメで、「居てくれる親(being parent)」が良いというものではなく、実際にはひとりの親にこの二つの面があり、どちらの要素が強いかがその親の在り方を示すことになります。
日本の社会が便利さと快適さを追求し、女性の社会進出を奨励することが当たり前になっていく中で、いつの間にか子育てを負担に感じる親が増え、その結果、家庭に居場所がないと感じる子どもたちが増えている気がします。居場所とは、ありのままの自分でいることが許され、なおかつそこに人のぬくもりと安心を感じることのできる空間のことです。忙しさが加速すると、親は日々の仕事と家事をこなすだけで精一杯となり、子どもの心に関心を向けるゆとりがなくなっていきます。家で好きなことをしてゴロゴロしているように見える子どもに何かをさせようとします。子どものことを心配する気持ちからそうするのですが、その結果、子どもがやるべきことをしているかどうかという目でしか子どもを見なくなってしまいます。それをしていない子どもを見て、つい声を荒げてしまうこともあります。
働く母親がそのまま「させる親」になっていくわけではありません。逆に、働かない母親が「居てくれる親」になれるわけでもありません。子どもを見ていて「もしかしたら子どもが寂しい思いをしているかもしれない」ということに気がつけば、たまには子どもの好きなゲームを一緒にやってみることもできますし、ゲームの何が面白いのかを聞いてみることもできます。そのような時間を過ごすことによって家庭に安心の空気が生まれることもあります。それによって子どもの心は充電されるのです。居心地の良い家にすると、子どもはますます学校に行かなくなるのではないかと心配される親御さんもおられますが、本当にそうでしょうか。安心して過ごせる家で心の充電ができるからこそ、子どもは学校という外の世界で頑張れるのではないでしょうか。
不登校の子どもが、自分の存在をかけて表現していることは、学校や外の世界に自分が出て行ける心の勇気とエネルギーをもらいたいということです。外の世界につながっていける勇気をもらえる場所を子どもたちは求めています。家庭がそのエネルギーを供給できる場になるためには、親が子どもの内面に目を向けることから始めなければなりません。それができると、子どもに働きかけるタイミングも見えてきます、そのタイミングを子どもの方が知らせてくれるものです。親にできる最初の一歩は、子どもに何かをさせる親から、子どもに寄り添い、子どもとともに考え、子どもに勇気を与えられる親へと自分を変えていくことではないでしょうか。もちろん、それは言うほど簡単なことではありません。
実際にあったお話を例にして、分かりやすくその違いを見てみましょう。
昼間に働いて子どもをひとりにしているお母さんが、子どものために毎日お昼のお弁当を作っています。わが子のためにお弁当を作ってやることそのものは、母親の愛情であり、子どもが求めているものでもあります。
ひとりの母親は、学校に行かせたい気持ちが強く、お弁当は子どもにとって学校に行かせるプレッシャーを含んだものとなっていました。その結果、子どもはそのお弁当を口にするわけにはいかくなりました。
もうひとりの母親がいます。その母親は働く母親ですが、子どもが学校に行かずに家にいても毎日お弁当を作って置いていました。その子は自ら奮起し、中学校卒業と同時にアルバイトをして働くようになったといいます。この違いはどこにあるのでしょう。
答えは、その行為の中に込められた母親の思いにあったのです。後者の母親は、息子が家で寂しい思いをしているかもしれないことに気づいていました。だから、子どもに寂しい思いをさせてごめんなさいとの気持ちでお弁当を作っていたのです。もちろん、作りながらも、早く学校に行ってほしいとか、こんな状況で過ごしていて将来大丈夫だろうなどの様々な不安が、母親の脳裏をよぎっていたに違いありません。しかし、何も言わずにただある願いをもってお弁当を作り続けました。その願いとは、息子がこの社会でこの子なりに元気に生きて行ってくれることでした。
前者の母親は、子どもの寂しい思いに気づくことがありませんでした。ただ、子どもを学校に行かせる手段としてお弁当を作っていました。そして、知らず知らずのうちに「おまえのおかげでお母さんはこんなに惨めな目にあっている」というメッセージを身体から空気として発していました。人一倍優しい心を持ったその息子は、母親のことを苦しめている自分を責め、心の深いところで寂しい思いを抱えていました。そして、そのことを誰にも言えませんでした。その結果、ひきこもりは長期にわたって続きました。
寂しいというのは、単に人がいなくて寂しいのではありません。自分の内面にしっかり寄り添ってくれる人がどこにもいないことが寂しいのです。母親が自分の不安と焦りでいっぱいになっていたら、子どもの心のエネルギーはその罪悪感と寂しさで消費されます。親の体裁、そして、わが子の将来という名の親の不安…。その不安から子どもに何かをさせようとする。親の関心は、今のありのままのその子には向けられず、問題点にばかり向けられてしまう。その結果、子どもは自分の力で前に進めなくなります。
子どもは、ひとつひとつの発達課題を乗り越えながら自立していきます。それがうまく乗り越えられないこともあります。そんなとき、学校やクラスの仲間たちから距離を取って、それを超えていけるエネルギーを充電するための時間が必要な子どももいます。子どもたちは、全身をかけて、親の眼差しが自分のありのままの姿へと注がれることを求めています。それを求める形がたまたま不登校という表現になっているにすぎません。子どもは自分に注がれてる眼差しを日々感じ取りながら、次の一歩を踏み出せるときをうかがっているのです。
親御さんが相談に来られた時間が、子どもに何をさせるかではなく、親御さん自身が日頃の子どもとのかかわりを振り返り、ゆっくり自分と向き合う時間になればいいなと願っています。